耳のちょうしはどうですか?看護師さんの文字、全然聞こえないと答えると、2回目のステロイド点滴の準備をしながら看護師さんが微かに頭をかしげたのを、ヨボヨボジジイは見逃さなかった。『不安』を針の先でチクッと刺されたが、今日を入れてまだ6回もありまんがな、ヨボヨボジジイ、意に介さず。
看護師さんの雰囲気も性格も多種多様。あわてんぼうな看護師さんもいるし、細部まで気が回らない看護師さんもいる。一目で信頼感バリバリのプロフェッショナルの方もいる。
コロナ入院患者は、邪魔者、厄介者だ。自己中のヨボヨボジジイ、これも意に介さず。
入院3日目になると熱も下がり、身体も自由が効き、カーテンで仕切られた隣の存在が気になり始める。510号室の先輩患者、寝たきりに近いヨボヨボだ。時々ザワザワと看護師さんたちが、カーテンを激しく波うたせたが、耳が聞こえないヨボヨボジジイの意識外だった。
昼食時だった。ヨボヨボジジイ、隣のカーテンと向かい合うようにベッドに座り、完食目指してカチ、カチ、カチ、カチと骨を鳴らして食物を噛んだ。揺れたカーテンのすそがめくれ、車椅子が見えた。隣のヨボヨボが車椅子で食事をするのは初めてだった。
隣のヨボヨボの食事姿勢の真横の影がヨボヨボの目の前のカーテンに波打っている。上体が前方にかしいだまま、箸の影だけがゆっくり上下を繰り返す。カチ、カチ、カチ、カチと飯を食う私の骨の音は私にだけしか聞こない。
午後、隣の老人沈黙の退院。一人ぼっちになったヨボヨボジジイ、510号室のヌシにおさまった。
隣のスペースの消毒が終わり看護師さんが出て行くと、ヨボヨボジジイは仕切りのカーテンをそっと開けた。窓の向こうにあったのは山の傾斜ではなく、一階ずつ下がっていくデザインの、焦茶色のマンションだった。退院した隣のヨボヨボが出て行った場所が寂しい自然の中ではなく、喧騒の街中だったことになぜかホッとしたヨボヨボジジイはサッとカーテンを引いて、外界を遮断した。
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