大浜の桟橋の先端に立つ黒猫のグリーンの双眸は花のビー玉のように美しかったが、15歳(人だと75歳)になると退色し輝きを失い、死者の双眸のように平坦になったが視力は維持していた。
6月頃、黒猫は伊方町の南端、大浜の海の異変を目撃していた。海面に浮き上がり2、3回体を立てたが、最後はぺったんこになって海面に浮くカワハギ。波間に漂う死んだボラ、浜に打ち上る赤黒いカサゴ。黒猫は海を訝った。ここの海に流れてきた「毒」で魚が死んだのか?死んだ魚がここまで流れてきたのか?どっちにしろ、潮の流れから元凶は沖の黒島だ。
村人が芋畑とみかん畑を放棄してから40年程経った死んだ黒島を、再生できるかどうか見極めるために、海沿いの黒田のおっちゃんが黒島へ船を出したのは、2019年8月20日午前10時ごろだった。20分ほどで黒島に着き、便乗していた黒猫は黒島へ上陸したあと海岸沿いを南から西へ探索しながら移動した。海面には死んだ魚が漂っていた。魚を咥えたトンビが沖の岩を蹴って空へ舞い上がった。高く高く舞い上がった。切り立った岩場に道を阻まれた黒猫はゆるやかな岩場を登り木立の中へ入って迂回した。しばらく歩くと、木漏れ日の光と影が流れ落ちる「立ち入り禁止」の真新しい立て看板があったが、黒猫はそれを無視してその奥の藪へ入った。藪の隙間の向こうには海の青がいっぱいあった。トゲのある蔓草にチクチク刺されたが、黒猫は藪を抜け、一段下がった1平方メートル程の白い光の上へ飛んだ。
それは平たい岩だった。
平たい岩が揺れた。黒猫の視界を掠めた青は空の青だ。落ちる!黒猫は身体を反転させたが、右の前脚が突き出た岩に当たった。黒猫は海面に突き刺さる平たい岩を見た。それは海中に入り鋭く斜めに走った。黒猫は着地の姿勢をとり暗い海面に突っ込んだ。
黒猫はもがいて岸に近づき這いずりあがった。ぱっくりあいた前脚の傷の痛さに耐えられず黒猫は死ぬように岩の上に横たわった。ピチャピチャ岩を洗う波音を黒猫は聞き続けた。
黒猫は3本脚でヨロヨロと立ち上がり、ピョコピョコ暗い岩場を歩いて洞窟の出口を探した。上部の穴から落ちてくる木漏れ日の強い光は、満ち潮の始まった海面を突き抜け、水深2メートル程の底を映し出していた。洞窟の大半を占める海面に死んだ魚は数えるほどしか浮いていなかったが、移動する木漏れ日が最後に映し出したのは、岩と岩の間で洗われるフジツボに覆われた大きな不発弾だった。黒猫はそれを目の端で捉えながら、壁沿いをピョコピョコ歩いて光がもれる出口へ向かった。
洞窟の出入り口は、後から岩を積み上げて塞がれたのは確実で、不自然な隙間がたくさんあった。人がすり抜けることができない小さい穴だが、黒猫は余裕で通り抜け光の当たる岩場に3本足で立った。
黒田のおっちゃんは黒猫を待っていた。船の上で黒猫は右足の傷を舐めた。その傷を気に掛けた黒田のおっちゃんを、黒猫は無視した。人間は信用しない。黒猫は退色した薄緑の目を閉じた。あの不発弾を隠したのは人間なのだ。
それから一月程の間、海へ入り続けたが黒猫の右前脚の傷は治癒することなく、赤い口をパックリ開けたままだった。途中から身体の異変に気づいた黒猫だが、前脚の傷を海水につけることはやめなかった。魚はまだ死に続けていた。海水の中に毒があるのならば、その毒で殺されることがヨボヨボの使命なのだ。海水の中に放射能があるならば、その放射能で殺されることがヨボヨボの告発なのだ。
翌日、黒猫が浸る海の波打ち際までやってきた三毛猫が、「何やってんだ?」と横柄に聞いてきた。
黒猫は海から上がり、右前脚のパックリ開いた赤い傷を三毛猫に突きつけた。
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