一つ目はさっきのアリ。スズ婆に促されたシゲ婆が渋々ミツジジイに教えてくれた、フミさんの、一回こっきりの、最後の、40年間分の、血と涙と糞尿まみれにした姉ちゃんへの、さよならのかわりの遺言。
「姉ちゃん、アリが10匹」
1967年
二つ目は過去のメジロと同級生だ。1967年、ミツの中学の同級生に軽い知的障害の吉秋がいた。吉秋は伊方町の西端、豊之浦から、ミツは南端の大浜から、それぞれ4キロ程の徒歩通学で、伊方町の中心湊浦の中学校へ登校した。一年生の時、同じ組で反りがあい話相手になった。というよりミツの方がちょっかいを出しイジったのだ。ミツは吉秋とは五分五分の付き合いだと思っていたが、周りから見れば、ミツが、吉秋をいじめているように見えていたらしい。
11月ごろ、去年まで鳩を飼っていたとミツが話したら、今メジロを飼っている吉秋が一羽やる、来週の月曜日に持ってくると、約束した。
月曜日。クネクネの国道197号線、男女に分かれて4キロの集団登校(村落別)だ。学年順に並び三年生は最後尾を濁している。仁田之浜を過ぎた頃に、酒屋の三年生の悪ガキに蹴り上げられたミツの直方体に膨れた通学用肩掛けカバン(キャンバス地)は想像より高く空中に浮いた。「教科書入ってないんかい?」呆気に取られた悪ガキに、ミツはカバンのフタを捲り、ぎちぎちに詰め込まれたメジロ用の竹籠を見せた。カバンにはそれだけしか入っていなかった。それ以来悪ガキはミツにからんでこない。
吉秋は袖口の擦り切れたパッツンパッツンの学生服のポケットから、緩く握った左手を出した。親指の上からは黒っぽい嘴、小指の下からは緑色の尻尾と赤い布切れがはみ出ていた。吉秋はメジロの嘴を咥え自分の唾液を飲ませ、両脚を縛っていた真っ赤な布切れを歯でほどき、メジロを竹籠の中へ解放した。艶やかな黄色いのどを持つ緑色のメジロは、自在に回転し、パッパッパッパッと止まり木、竹ひごを掴んだ。白く縁取られたメジロの目は小さな水面だった。ミツはその透明感を幼いと思った。昼休みにはメジロの水と餌のミカンを替えた。ミツは竹籠の入ったカバンを再び机の下の足元に隠した。それは時限爆弾だった。
五時限目の英語の授業中に爆発した。「チッチュウ!」メジロが鳴いたのだ。暗闇を走った一瞬の光線を、先生は背中を向けたまま無視した。同級生がざわめく中、ミツと吉秋は微動だにしない。
「オレノイチバンイイメジロヲヤル」吉秋の言葉は、雲ひとつ無い青空だった。
吉秋からもらったメジロは本当に優秀だった。喉から腹にかけて鮮やかな黄色で、美しいシャープな鳴き声を持っていた。毎朝、エサの大根の葉っぱをすり鉢で擦り、水を替え、竹籠の底の糞の掃除をした。秋から冬にかけて、吉秋からもらったメジロを囮に、何羽か新しいメジロを捕まえたが、吉秋のメジロより優れたメジロはあらわれなかった。2年生に上がると2人は別々の組になった。
中学を卒業してから1年半ぶりに吉秋を見たのは、高校2年の秋、八幡浜を出港した千鳥丸の船上だった。クレヨンのような細長い千鳥丸は八幡浜と伊方町を結ぶ小さな連絡船で、八幡浜を出た後、寄るのは伊方町の大浜、中之浜、仁田之浜、湊浦、終点の川永田だ。吉秋は終点の川永田で下船し徒歩で一山超えて豊之浦へ帰るのだ。
「吉秋・・・」懐かしさだけではない、1年半ぶりに見た喜びだった。しかし、ミツは声をかけるのを躊躇った。二人は右舷と左舷にいて、間にある客室の小さなガラス窓の向こうの吉秋は、もう中学生の顔ではなく、社会と対峙している厳しい横顔だったからだ。ミツには不幸そうに見えたからだ。
千鳥丸は宇和海のふちを北へ進んだ。大浜の桟橋に乗船客の影は無く、下船はミツ一人だった。スクリューを逆回転させ着岸しない千鳥丸からミツは桟橋へ飛んだ。吉秋に声をかけなかった後悔は小さい黒点として残った。
吉秋にもらったメジロは中学3年の秋に失っていた。
宇和海を見晴らせる山寺の傍に、人間と自然とに分離している谷川がある。ミツはメジロの竹籠を包んだ浅葱色の風呂敷を抱えて自然側へ防砂堤を渡った。急斜面の雑木林に見つけた空間に浅葱色の風呂敷を広げ、野生の枇杷の木の枝を折り、そこへメジロの入った竹籠をかけた。ミツは小さな瓶から取り出したとりもちを口に含み、くちゃくちゃ唾液まみれにし、40センチほどに折った枝にそれを伸ばしながらグルグル巻きつけた。枝先に葉の残ったその罠は竹籠に水平に刺され、吉秋のメジロの囀りに誘われて近寄る野のメジロを待ち受ける。瓶と風呂敷をズボンのポケットにねじ込み人間側へ戻ってきたミツは、ツバキの花を踏んで身を潜め向こう側の竹籠を窺った。
自然側にある竹籠の入口の門から吉秋のメジロが半分出ていた。一瞬ミツは惑乱した。メジロは竹籠の上に飛び移った。ミツは半分上がった入り口の門を視認した。ミツは吉秋のメジロが飛び去る大空を冷静に見上げた。濁りのない深い青だった。ミツは己の失態を確認した。入口の門を上げた肌色のとりもちのカスが、左手の指先に残っていた。その現実にだけミツは悪態をついた。
枇杷の木から離れようとしない吉秋のメジロの姿勢に、ミツは自然の希望を持った。そうだ2年間もその鳥籠の中で生きたんだ、そこがお前の帰る場所だ。人間とメジロの2年間のつながりに、ミツは人工の希望を持った。谷底は、自然にも、人間にも分け隔てなく鮮明だった。吉秋のメジロは迷っているのだ。ミツは竹籠の中に戻るまで待とうと思った。
ミツはメジロの嘴を咥えた吉秋を思った。ミツはメジロの両足を縛った布切れの赤を思った。ミツは白い縁取りのある小さな水面の意味を考えた。暗い鞄の中で鳴いたメジロの意思を考えた。監禁、飼育された2年間の長さを考えた。吉秋のメジロは枇杷の木の中をきびきびと上下して、時々鳥籠に乗った・・・楽しそうに。
「迷っているのではない、知らないのだ、吉秋のメジロは自由を知らないのだ」
中学生のミツは、しなければならないことを行動に移した。防砂堤を向こう側へ渡り、空っぽの竹籠の入口を閉め、風呂敷に包み、鳥もちを片付け、防砂堤をこちら側へ引き返し、迷うことなく山寺の長い石段を下って村へ戻った。
深夜になると全ての見物客が帰るべき場所へ戻って行った。黒島隔離封鎖巨大ドーム設置イベントの長い1日が終わった。
翌朝、ミツジジイは八幡浜から高速バスに乗った。バナナとアリとメジロを忘れない見物客は、桟橋を、大浜を、伊方町を、迷うことなく後にしたのだ。

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