原発の町17 黒島はいつかのフミさんの家みたいにシーンとしている。夕暮れの桟橋の先端に立つミツジジイはアリとメジロと同級生の事を考えていた。

 一つ目はアリ。スズ婆に促されたシゲ婆が渋々ミツジジイに教えてくれた、フミさんの、一回こっきりの、最後の、40年間分の、血と涙と糞尿まみれにした姉ちゃんへの感謝の遺言。

 「姉ちゃん、アリが10匹

1970年

 二つ目はメジロと同級生だ。1967年、ミツの中学の同級生に軽い知的障害の吉秋がいた。吉秋は伊方町の西端、豊之浦から、ミツは南端の大浜から、それぞれ4キロ程の徒歩通学で、伊方町の中心湊浦の中学校へ登校した。一年生から同じ組で反りがあい話相手になった。というよりミツの方がちょっかいを出しイジったのだ。ミツは吉秋とは五分五分の付き合いだと思っていたが、周りから見ればミツが吉秋をいじめているように見えていたらしい。

 11月ごろ、去年まで鳩を飼っていたとミツが話したら、今メジロを飼っている吉秋が一羽やる、来週の月曜日に持ってくると、約束した。

 月曜日。クネクネの国道197号線、男女に分かれて4キロの集団登校(村落別)だ。学年順に並び三年生は最後尾を濁している。仁田之浜を過ぎた頃に、酒屋の三年生の悪ガキに蹴り上げられたミツの直方体に膨れた通学用肩掛けカバン(キャンバス地)は想像より高く空中に浮いた。「教科書入ってないんかい?」呆気に取られた悪ガキに、ミツはカバンのフタを捲り、ぎちぎちに詰め込まれたメジロ用の竹籠を見せた。カバンにはそれだけしか入っていなかった。それ以来悪ガキはミツにからんでこない。

 吉秋は袖口の擦り切れたパッツンパッツンの学生服のポケットから、緩く握った左手を出した。親指の上からは黒っぽい嘴、薬指の間からは真っ赤な布ぎれで縛られた両脚、小指の下からは尻尾が出ていた。吉秋はメジロの嘴を咥え自分の唾液を飲ませ、真っ赤な布切れを歯でほどきメジロを竹籠の中へ解放した。そのなめらかな黄緑色の生き物は、止まり木や天井や壁へボクサーのように軽いステップで移動し、艶やかな美しい黄色いのどを見せた。白く縁取られたメジロの目は小さな水面だった。ミツはその透明感を幼いと思った。昼休みにはメジロの水と餌のミカンを替えた。ミツは竹籠の入ったカバンを再び机の下の足元に隠した。それは時限爆弾だった。

 五時限目の英語の授業中に爆発した。「チッチュウ」メジロが鳴いたのだ。暗闇を走った一瞬の光線を、先生は背中を向けたまま無視した。同級生がざわめく中、ミツと吉秋は微動だにしない。

 「オレノイチバンイイメジロヲヤル」百舌鳥の鳴き声のような吉秋の言葉だ。

 吉秋からもらったメジロは本当に優秀だった。喉から腹にかけて鮮やかな黄色で、美しいシャープな鳴き声を持っていた。毎朝、エサの大根の葉っぱをすり鉢で擦り、水を替え、竹籠の底の糞の掃除をした。秋から冬にかけて、吉秋からもらったメジロを囮に、何羽か新しいメジロを捕まえたが、吉秋からもらったメジロより優れたメジロはあらわれなかった。2年生に上がると2人は別々の組になった。

 中学を卒業してから1年半ぶりに吉秋を見たのは、高校2年の秋、八幡浜を出港した千鳥丸の船上だった。チョークのような細長い千鳥丸は八幡浜と伊方町を結ぶ小さな連絡船で、八幡浜を出た後、寄るのは伊方町の大浜、中之浜、仁田之浜、湊浦、終点の川永田だ。吉秋は終点の川永田で下船し徒歩で一山超えて豊之浦へ帰るのだ。

 「吉秋・・・」懐かしさだけではない、1年半ぶりの喜びだった。しかし、ミツは声をかけるのを躊躇った。2人を隔てる客室の小さなガラス窓の向こうの吉秋は、もう中学生の顔ではなく、社会と対峙している厳しい横顔だったからだ。ミツには不幸そうに見えたからだ。

 千鳥丸は宇和海のふちを北へ進んだ。大浜の桟橋に乗船客の影は無く、スクリューを逆回転させ着岸しない千鳥丸からミツは桟橋へ飛んだ。吉秋に声をかけなかった後悔は小さい点として残った。

 吉秋にもらったメジロは中学3年の秋に失っていた。

 大浜を見下ろす山寺の傍の谷に、山寺側と雑木林側に分離された生態系をつなぐ防砂堤がある。ミツはメジロの竹籠を包んだ浅葱色の風呂敷を抱えて雑木林側へ防砂堤を渡った。浅葱色の風呂敷を開け、野生の枇杷の木の枝を折り、そこへメジロの入った竹籠をかけた。ミツは小さな瓶から取り出したとりもちを口に含み、くちゃくちゃ唾液まみれにし、40センチほどの長さの枝にそれを伸ばしながらグルグル巻きつけた。枝先に葉を残したその罠は竹籠に水平に刺され、吉秋のメジロの囀りに誘われて近寄る野のメジロを待ち受ける。瓶と風呂敷をズボンのポケットにねじ込み山寺側へ戻ってきたミツは、椿の花を踏んで身を潜め竹籠を窺った。

 向こう側にある竹籠の入口の門から吉秋のメジロが半分出ていた。一瞬ミツは惑乱した。メジロは竹籠の上に飛び移った。ミツは半分上がった入り口の門を視認した。ミツは吉秋のメジロが飛び去る大空を冷静に見上げた。濁りのない深い青だった。入口の門を上げた肌色の鳥もちのカスが、左手の指先に残っていた。その現実にだけミツは悪態をついた。

 枇杷の木から離れようとしない吉秋のメジロの心ににミツは満足した。そうだ2年間もその鳥籠の中に住んだんだ、そこがお前の帰る場所だ。2年間の習慣にミツは期待した。谷はしんみりしていた。吉秋のメジロは迷っているのだ、ミツは竹籠の中に戻るまで待とうと思った。

 ミツはメジロの嘴を咥えた吉秋を思った。ミツはメジロの両足を縛った布切れの赤色を思った。ミツは白い縁取りのある小さな水面を考えた。暗い鞄の中で鳴いたメジロを考えた。飼育の2年間の長さを考えた。

 海岸まで続く谷を流れ下った陸風はミツを震えさせた。

 「迷っているのではない、知らないのだ、吉秋のメジロは自由を知らないのだ」とミツは考えた。

 中学生のミツがしなければならないことを、ミツはした。防砂堤を向こう側へ渡り、空っぽの竹籠の入口を閉め、風呂敷に包み、鳥もちを片付け、防砂堤をこちら側へ引き返し、迷うことなくそこを後にしたのだ。

 

 ドームに閉じ込められた黒島が夜に消えると、ミツジジイは桟橋を大浜を伊方町を迷うことなく後にした。

 深夜になると全ての人間が帰るべき場所へ帰った。黒島隔離封鎖巨大ドーム設置イベントの長い1日が終わった。

 吉秋のメジロは耳を澄ます。耳をすまして放射能の潮騒を聞く。

 

 

 

 

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